子供が性的暴力の被害に遭うことについて


子供が性的暴力の被害に遭うことについて

目黒駅前メンタルクリニック

院長 小川 耕平

博士(医学)

精神保健指定医

精神保健判定医

日本精神神経学会 専門医・指導医

日本臨床精神神経薬理学会 専門医

青山学院大学 非常勤講師

私のような町場の精神科医は,たくさんのうつ病の患者さんと出会う。

うつ病という病気は,医学の中でも科学的な解明が比較的進んだ疾患の一つで,薬物療法の進歩が目覚ましい。典型的なうつ病は,今では薬物療法による治療成績の良い精神疾患の一つと言える。実際に,非常に落ち込んだ状態で私の元に来た患者さんが,正しくうつ病と診断され,適切な薬物療法が行われた結果,患者さんが回復していく一部始終を多く見届けてきた。

ところが,一目見ただけでは「典型的なうつ病」の患者さんと何ら変わらない女性の患者さんの治療に難渋する事がある。

正確に言うと,初診の時には,その患者さんは何の変哲もない年齢相応の外見で,うつ病を疑わせる女性なのだが,何とも言えぬ影というか,乱暴な言い方をすれば,私の「野生の勘」のようなものが,「何かが違う」と囁くことがある。

しかし,その言葉にならない不可思議な感覚を抱えつつ,私はとある女性の患者さんの話を聞き,症状や経過をまとめ,除外すべき診断を除外して,うつ病以外はまず考えられない,と最終的にうつ病と診断を下して,薬物療法を開始した。

案の定,治療を初めると,私の「野生の勘」が囁いた通り,その患者さんは「典型的なうつ病」ではあまり見られない経過を辿り,抗うつ薬がなかなか効かず頭を悩ませた。

 あるとき,何度も診察したこの患者さんを前にして,私は「実はこの患者さんは双極性障害など別の診断なのかもしれない」,などと頭の中で考えていると,不意にその患者さんが私に,まるでお天気の話でもするように,「子供の頃に性的な外傷体験を経験した」という,とても重大な告白をしたのである。

精神医学の世界では,近年,「逆境的小児期体験」という言葉が注目されている。逆境的小児期体験のあるうつ病患者は,治療抵抗性で症状が遷延化・重症化することが多いと言われる。今では,性的外傷体験は,極めて重大な精神的なダメージを与えると広く理解されるようになったが,幼少期の性的な外傷体験は,逆境的小児期体験の中でも最たるものの一つである事は言うまでもない。

私はこの患者さんの告白を聞き,「典型的なうつ病」の患者さんのように簡単にはいかないことに合点がいった。そして驚くべきことに,「子供の頃に性的な外傷体験を経験した」という患者さんと出会う経験は決して少なくない。

子供が性的な外傷体験の被害を受ける場所は,家庭や近所の道路や公園,集合住宅といった,子供が日常生活を送る場所である。さらにその加害者のほとんどが顔見知りの大人である。そして悲しい事に,子供が性的外傷の被害を受ける場所の代表の一つは学校であり,顔見知りの加害者が,他ならぬ信頼できるはずの学校の教師なのもまた,事実なのである。

子供にとって,日常生活を送る身近な場所は安全であるべきだ。両親や信頼できる近所の大人達に守られて子供達は成長していく。これが私達の生きる社会である。

 子供が信頼すべき大人から性的な被害体験を受けると,被害を受けた子供の内的世界では,信頼すべきはずの安全な世界がガラガラと大きな音を立てて崩れ,一転して,世界は危険で信用できない場所だという確信に変化する。大人である私たちにも,それがとてつもなく重大で恐ろしいことだと容易に想像がつく。

残念ながら子供が性的な暴力の被害に遭う事件は後を絶たない。私達大人は,子供達が「世界は信用する価値がある」と信じつづけられるよう,責任を持ち,行動を起こす必要があるのだ。






278回の閲覧0件のコメント